詩篇 119:41

主よ。あなたの恵みと、あなたの救いとが、みことばのとおりに、私にもたらされますように。

 

ここで神の「恵み」と訳されている言葉は、ヘブル語で「ヘセッド」といいます。

この「ヘセッド」という言葉は、恵みという言葉たった一つでは言い表しきれない程に広い意味を持ちます。

それは、神の優しさです。

では具体的に、神がどのように優しいのかというと、イスラエルの人々が、神に従うことができず、神に背き続けたことに対する神の忍耐です。

 

それは、イスラエルの人々に限ったことではありません。

今日の私たちも、神を知り、自分の罪を知り、そしてイエス・キリストが自分の罪のために命を捧げてくれたことを信じるまでに、一体何年かかったでしょうか?

もしも、私たちが、イエス・キリストを救い主として信じる前に、この地上での時間を終えていたとしたら、私たちは、自分の罪の代価を、自分の命を通して支払わなければならなかったのです。

聖書によると、罪の代償は死です。

それは、肉体的な死だけではなく、神の恵みも祝福も二度と受け取ることのできない場所へ行くこと、神との永遠の別れです。

しかし、神は、そんな私たちの頑なな心を、あきらめずに、何度もノックし続けてくれました。

イエス・キリストの愛と赦しを、言葉と行動をもって表し、そして、福音を分かりやすく話してくれる人たちを、まわりに置いてくれました。

それは、神の「ヘセッド」忍耐深い優しさによることです。

 

そして、一度、イエス・キリストを救い主として信じた後も、私たちは何度も罪を犯します。

それであっても、神の私たちへの愛は変わることがありません。

私たちが、自分の罪を認め、神に立ち返る時、私たちは、神の変わらぬ愛を受け取ることができます。

それも、神の「ヘセッド」忍耐深い優しさによることです。

 

ここで詩篇の著者が褒めたたえているのは、神の変わらぬ愛と、尽きることの無い忍耐です。

それが無ければ、私たちは、とっくの昔に、自分で犯した罪によって滅びていたかもしれないのです。

しかし、神は、ご自身が人となってまでも、私たちと神を妨げている罪を、取り扱ってくれました。

イエス・キリストを救い主として信じる者を、ご自身の子どもとして受け入れてくれ、それ以後何があっても、見放すことも、見捨てることも無いとさえ、約束してくれました。

 

ヨハネ 1:12

しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 

神を信じて、従うこと、信仰とは、自分の意志の力の強さではありません。

自分が、どれほどの大きなひどい罪から赦され、どれほど大きな愛と祝福を日々注がれているかを、心から知っている人、その感謝の中に生きることです。

 

 

 

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