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ローリングヒルズカベナント教会 日本語ミニストリー牧師 

寺嶋 伯文 (てらしま のりふみ - みんなNori先生と呼んでいます)

略歴

宮城県仙台市に生まれる。

ヴァージニア州でMBAの学生であったときに、主イエス・キリストに出会う。

帰国後、当時まだ福音を知らなかった父に信仰をシェアした際に、父と同じようにまだ福音を知らない人たち、イエス・キリストを知らないたくさんの人たちの救いのために働きたいという思いが与えられる。

ミニストリーへの道と神学校へ行く道が開かれるタイミングを主に委ねて祈りつつ、会社員をしながら東京のインターナショナル教会にて奉仕に従事。

その間、妻と双子の男女の子供が与えられる。

4年の祈りの後、神学校への道が開かれる。妻と当時7ヶ月の双子を連れて、インドの神学校へ渡る。

その後カリフォルニアのフレズノの神学校へトランスファーする。2012年12月卒業。

2013年2月よりローリングヒルズカベナント教会 日本語ミニストリーの牧師としての働きを開始。現在に至る。

 

家族構成

妻 芳香(よしか)と双子の息子と娘

 

 

イエス・キリストとの出会い

 

私はヴァージニア州ウィンチェスターでMBAの 学生であったときに主イエス・キリストに出会いました。クリスチャンの友人に誘われて、ウィンチェスター市内にある教会のクリスマスパーティーに参加した のがきっかけです。そこで出会ったクリスチャンの方々の喜びと感謝に満ちた姿があまりにも印象的で、それ以来その教会の礼拝に通うようになりました。

 

彼らが年を重ねてなお子供のように純粋な輝いた目をしていられるのはなぜだろう。彼らが心から慕う主イエス・キリストとは一体誰なのだろう、というのが当時 の私が抱いた一番の疑問でした。そして何よりも、主イエス・キリストを知り、私も彼らのようになりたいという思いが私の中にふつふつと湧き上がるのを感じ ました。同教会の礼拝に参加し、毎週のユースイベントにも参加し、知り合った数々の人たちの証を聞き、主イエス・キリストとは誰かを探り求める日々が始ま りました。

 

同教会に通うアメリカ人の中で、日本人が私一人だったのが珍しかったのかもしれません。しばらくして、同教会の牧師の一人に話しかけられ、彼のオフィスに遊 びに来るよう勧められました。初めて彼のオフィスを訪れた日に、福音の正しい意味を教えられました。その時「イエス・キリストを人生の主として今ここで受 け入れますか?」と聞かれましたが、福音の意味を頭で理解したつもりでも、その場で主イエス・キリストを受け入れる決断はできませんでした。

 

それでもこの牧師先生はそれ以来、彼のオフィスで毎週1対1の バイブルスタディーをしてくれるようになりました。同教会で使用している教材を使用して、旧約聖書を通してそれが主イエス・キリストにどのようにつながる のかを学びました。その後、その先生が祈りの中で、私がイエス・キリストを知る必要があると主から示されたとのことで、ヨハネの福音書を一節一節学ぶよう になりました。この先生とのバイブルスタディーは私がMBAの修士課程を修了し、学校を卒業して、日本へ帰国せざるをえなくなるまで約1年半続きました。

 

イエス・キリストの罪の贖いの意味を頭で理解してはいましたが、それを信仰をもって信じて受け入れるまでには至らず、未信者として日本に帰国しました。イエス・キリストが十字架の上で流された血潮の意味は理解していましたが、その血によって罪を赦され贖われた人類の一人に私個人が含まれているという点がどう しても理解できない点でした。

 

2000年 以上も前に地上におられた人が、どうして私のことを知り、そして私の罪を贖ってくださるために十字架の上で命を捧げられたということが本当にありえるので しょうか。イエス・キリストによる救いの意味を頭で理解したつもりでいても、主イエス・キリストを自分の人生の救い主として受け入れることが出来ない点に 葛藤しました。

 

なぜ、私はクリスチャンになれないのだろうと考えたとき、それはイエス・キリストのことを知らないからだという結論に達しました。どうしてもイエス・キリス ト御自身のことをもっと知りたいという半ば渇きにも近い願いに突き動かされて、聖書の新約聖書を一節一節声に出して音読する日々が始まりました。マタイの 福音書から始まり黙示録の最後まで音読すると、またマタイの福音書の初めに戻り音読を続けました。

 

この時期を通して、神は私自身の内にある罪、癒しを必要とする傷、自分では変えることの出来ない自分の欠点などについて愛と恵みをもって示してくださいまし た。そしてまた神は私がどれだけ罪人であるか、またそれゆえに私がどれだけ主イエス・キリストの救いを必要としているかを理解することを助けてくださいま した。ローマ書の7章15節から20節に心を打たれた日が何度もありました。

 

私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。もし自分のしたくな いことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついて いる罪なのです。私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行 することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしている のであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。 【ローマ人の手紙7:15-20]

 

私が自分がどれだけ罪の性質を負い、そして自分で自分を救うことは出来ず、主イエス・キリストによる救いを必要としているかをゆっくりとそして確実に理解していく日々でした。

 

新約聖書の音読を続けるうちに、聖書についてのたくさんの疑問もまた浮かんで来ました。そのたびにヴァージニアの教会の牧師先生たちや教会の兄弟たちにメー ルを送りました。皆時間を割いてメールで私のために聖書のこと、イエス・キリストのことを詳しく教えてくれ、そしてまた彼ら自身の証も分かち合ってくれま した。このメールでのやり取りを通して私の聖書理解、イエス・キリストに対する理解も徐々に深まっていきました。

 

そうこうするうちに気がつけば新約聖書の音読も18回 を超えていました。ある日いつものように神に祈る中で、これまで頭で分かっていても口に出して祈ることが出来なかった祈りがついに口をついて出て来まし た。それは、主イエス・キリストが私の罪のために十字架の上で命を捧げてくださり、それによって自分の罪が赦されたことを感謝する祈りでした。それは、私 が新約聖書を18回音読したから理解することができたのではなく、神が御自身のタイミングで私の心を開いてくださり、福音の意味を心から理解することを助けてくださり、そして主イエス・キリストを救い主として受け入れる信仰を与えてくださった、神の恵みによる救いでした。

 

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